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受け入れるということ 2004年6月21日(月)22時

値動きを受け入れる感覚についていろいろと考えて見ました。
株式売買をはじめた頃は我流でやはり大抵の人と同じくファンダメンタルで、新聞を読みインターネットで情報を掻き集め「これから伸びる企業」を必死に探しました。
何か材料があると注意深く株価や掲示板を見ては「確かに反応している」とか「あれ?反対の動きだな?」とか思いながら材料と値動きを結びつけて考える習慣をつけていました。
そうしているうちにこれぞと思った材料で買い出動し、期待しながら値上がりを待つのですが、当然こういった銘柄は下がるんですよね。
けれど、自分の立てた予想は絶対だと信じていますから、「きっと地合が悪いから」と自分に言い聞かせたり、はては「小泉政権が悪い」「アメリカが悪い」と人のせいにして自分が間違っていることを絶対に認めませんでした。

何が言いたいのかというと、このような状態のときは、決して自分の非を認めず「株価が間違っている」という考えになります。
これは唯一の真実=株価を受け入れるどころか否定している状態ですね。
大きく打撃を受けてやっと「自分の考えが間違っていた」と悟り、今度こそはと別の材料に飛びつく。
これを何ヶ月も続けたんだから本当に間抜けですね(笑)

一番打撃が大きかったのは銀行株です。
りそなショックから盛り返してきたところを売りました。(りそなではないメガバンク)
当時の金融業界への竹中ハードランディングや新聞で取り上げられている記事を読むと、いかにも日本の金融は腐っており、地銀、メガバンクも淘汰されて当然で、数行に絞るべきだと思えました。図書館に行けばそういった類の経済書は山のようにあり、毎週のように読み漁り確信を高めたのです。
今思えば
・マスコミの材料で洗脳され
・さらにその考えに沿った情報をかき集め自己培養していた
ということですね。 まあ第二海援隊の日本デフォルト論や水野隆徳の仏教経済学などは勉強にはなりましたが。。
この頃も林輝太郎先生の本は読んでいましたが、文字を目で追っていたに過ぎません。(今もそれに近いですが)
毎日毎日「もう天井だろう。明日からは暴落だろう」と神に祈る思いで、株価を見ていたのです。
本当に大バカでしたね。

振り返ると、こういった経験をしないと理解できないのが自分なんだと思います。我が強く、自分で経験(痛い想い)しないとわからないようです。
いまは少しだけ成長して、
・株は私の知っている情報の何万倍もの情報で株価が決定されている。
・政治、経済は間違っていない。事実として存在している。
と思うようになりました。
政治が悪いので直そうとしている志の高い人を批判するつもりはありませんし、そんな資格はありません。
目的が違うので考えが違うんです。

世の中を素直に受け入れるということは、人間関係にも通じることで、相手の考えを尊重することと思います。
それを訓練するということはまさに修行であり、より生きてゆきやすくなるんだと思うようになりました。



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